09│情報リテラシーとは何か(2/3)

※10年前のアプリ当時のテキストです。今後修正を加えていく可能性が大アリです。

 いまこうして書いている文章は、この春からひとり暮らしを始めた人たち──年齢的に、ものごころがつく頃には、すでにネットなどの環境が身近なものになっていた人たち──が読んでくれていることを、まずは念頭に置きながら組んでいます。

 では自分(筆者)の場合は?というと、大学に入った頃を境にインターネットという世界が現れ、携帯電話やPHSが普及し始めて、大学に整えられたタワー型のパソコンから、ネットやメールに馴染んでいきました。

 ネットが日常へと浸透していく過度期(かとき)を生活してきた感があります。

 そして今、ツイッターをやるようになって(つまり情報を自分から発信するようになって)、前トピックのような出来事も踏まえて思い至るのは、繰り返しになりますが「感情を乗せやすくなったってことなんだな」ということです。

 ネット上で目に飛び込んできた情報にカチンときてしまったり、上から目線やとんでもなく狭いものの見方にへこまされたりすることは案外と多いものです。

 それ自体正直どうなんだと思ったりもするのですが、ここで重く受け止めなければならないのは、そうした瞬間にわき上がる自分の気持ちをそのまま投げ返したり投げつけてしまえる手段を、私たち自身も持っている、という事実なんだと思うのです。

 話がすこし脱線しますが、私には母との仲がずいぶん悪かった時代が長くありました。

 何か特別な事情が間にあったという訳でもなかったのですが、思い返してみると、やっぱりことごとくソリが合わなかったんだ、と思うのです。

 いまでこそ、作った弁当の写真をメールで送ってやりとりしたり、当時を知っている友人などからは驚かれるぐらいなのですが、当然、人と人の関係というのは、ある日突然変わる訳でも、変えられる訳でもありません。

 仲の悪かった頃から今の関係が築けるまでの「移行期間」のやり取りには、ずいぶん心を乱したりしました。

 当時は母にメールの習慣がなかったこともあって、そのやりとりは手紙が主な手段となります。

 母のことをまだ全ては許容し切れていませんから、なにかあれば手紙にも「どうしてあなたはいつもそうなのか」と書いて送りつけてやりたくなります。

 しかし、そうして実際に書きつけたものをしばらく時間をおいてから見返してみると、そういうことを書いた自分自身の小ささに気づいて、消しゴムを手に取ることになるのです。

 つまり、手紙では書いてから実際に出すまでの時間の余白が「感情のブレーキ」になりうる、ということであり、そしていま、ネットやメールでのやり取りでは、それが存在しない、ということです。

 そして、その感情の流れ着く先は特定の個人だけではない、世界中へ広がるネットという名前のいわば「海」であり、一度送り出してしまえば、たとえ元の情報を消したとしても、データが完全に消え去ることはまずありません。

※「世界」という言葉でピンと来ない人は、逆に自分の学校や職場の隣の席の人、住んでいる家の、隣の人など、なるべく狭い枠の言葉に置き換えてみてください。

(続きます)

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