14│よりよいコミュニケーションを結ぶために(4/4)

14│よりよいコミュニケーションを結ぶために(4/4)

※10年前のアプリ当時のテキストです。今後修正を加えていく可能性大です。

 最初の仮説を、もう一度見てみます。

 それまでにも日本に「コミュニケーション的なもの」はあった。けれどもそれは”なぜか”言語化されることのないままやってきて、80年代になり、コミュニケーションという言葉を登場させなければならない”なんらかの理由”がでてくるようになった。

 ひとつ目の『近代以前の日本に「コミュニケーション的なもの」が言語されてこなかった理由』については、前トピックですこし解き明かすことができたように思います。

 ふたつ目は『80年代になってコミュニケーションという言葉を登場させなければならなかった、なんらかの理由』ですが、こちらについては「高度成長期」という時代がその切り口となる気がします。

 都市圏への人口の流入。

 核家族化。

 地域社会の希薄化。

 そしてそうしたものの帰結としての、プライバシーの確立。

(プライバシーの弱さをその発生の基盤とした思いやりと察しの文化(=日本コミュニケーションの根底)が、高度成長期の中のプライバシーの確立によって希薄化するのは、ある意味当然でしょう)

 国会図書館のデータベース検索のお話の中で、『80年代になって「家庭内コミュニケーション」などの例が顕著になってきた』とお話ししました。

 高度成長の裏で生じるひずみ・ゆがみのなかに、察しと思いやりの文化の希薄化という事態をみてとった人々が、その問題を指し示す新しい言葉として『コミュニケーション』を持ち出したのではないか、と推論してみることに、それほど無理があるとは思いません。

 まとめてみると、

 日本の文化・コミュニケーションの基調は「察しと思いやり」であり、それゆえ、あえて言語化される(名付けられる)こともなかった。しかし経済成長に伴ってそうした文化そのものが希薄化し、そうした事態を指し示す言葉としてコミュニケーションが一般化してゆく。

 さらに続けて、

 しかし、そうした不安定な背景から始まったこの国の「コミュニケーション」は、手にした人によってその解釈がまちまちなものとなり、結果、現在のコミュニケーションの不全を生み出す大きな土壌となっている。

 こんな感じでどうでしょうか。

「察しと思いやりの文化」をもの差しに考えてよいのなら、この国におけるコミュニケーションの適訳とは、

『お互いを察し思いやるその中で、お互いの理解や共感を深めていくこと』

を言うのではないか、というのが、いまの私なりの結論です。

 欧米でのコミュニケーションが、よく聞くように自分の考えをはっきり主張し「発信する」ことから始まるそれであるのなら、日本人のコミュニケーションは、相手の様子を「伺う」ところから始まるそれであり、その意味で全く逆の性質・ルールを持つものなのでしょう。

*   *   *

 やっとこ本題です。

 コミュニケーションという言葉に苦手意識を持ち、立ちすくんでしまう人が非常な数に上(のぼ)ることは、先のトピックで示した膨大な図書数からも明らかです。

(あれだけの本が出版されている、ということは、つまりそれだけ「買う人の数を見込んでいる」とも考えていいでしょう)

 しかしもし「自分はコミュニケーションが下手なんだ」と思い込むことの根拠を、「上手くしゃべれない、場を盛り上げられない、気の利いた質問ができない」といった『スキル』に求めているのであれば、それはもう止(や)めてしまってもいいのではないでしょうか。

 なぜなら、ここで定義したコミュニケーションという言葉の意味──互いの共感を深めていくこと──に沿って考えれば、それらは決して第一義ではなく、むしろそこからは遠いものだとさえ、言っていいはずのものだからです。

 ではどうすれば、人は人を察したり思いやったり…といったことができるようになるのか。

 それは、相手の「人となり」というものをまっすぐに見つめ、その話にじっくりと耳を傾けてみることからしか、実は始まらないのではないでしょうか。

(大多数の人間が絡む会議などの場では、これとは別にそのコミュニケーションのゴールを設定しそこからブレないことが大切になります)

 日本人は元来「口下手である」とされてきましたが、しかしそんな日本人だからこそ、築いてこれたコミュニケーションの形がある。

 そんな風に考えてみても、いいように思うのです。

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