※10年前のアプリ当時のテキストです。今後修正を加えていく可能性大です。
最初の仮説を、もう一度見てみます。
それまでにも日本に「コミュニケーション的なもの」はあった。けれどもそれは”なぜか”言語化されることのないままやってきて、80年代になり、コミュニケーションという言葉を登場させなければならない”なんらかの理由”がでてくるようになった。
ひとつ目の『近代以前の日本に「コミュニケーション的なもの」が言語されてこなかった理由』については、前トピックですこし解き明かすことができたように思います。
ふたつ目は『80年代になってコミュニケーションという言葉を登場させなければならなかった、なんらかの理由』ですが、こちらについては「高度成長期」という時代がその切り口となる気がします。
都市圏への人口の流入。
核家族化。
地域社会の希薄化。
そしてそうしたものの帰結としての、プライバシーの確立。
(プライバシーの弱さをその発生の基盤とした思いやりと察しの文化(=日本コミュニケーションの根底)が、高度成長期の中のプライバシーの確立によって希薄化するのは、ある意味当然でしょう)
国会図書館のデータベース検索のお話の中で、『80年代になって「家庭内コミュニケーション」などの例が顕著になってきた』とお話ししました。
高度成長の裏で生じるひずみ・ゆがみのなかに、察しと思いやりの文化の希薄化という事態をみてとった人々が、その問題を指し示す新しい言葉として『コミュニケーション』を持ち出したのではないか、と推論してみることに、それほど無理があるとは思いません。
まとめてみると、
日本の文化・コミュニケーションの基調は「察しと思いやり」であり、それゆえ、あえて言語化される(名付けられる)こともなかった。しかし経済成長に伴ってそうした文化そのものが希薄化し、そうした事態を指し示す言葉としてコミュニケーションが一般化してゆく。
さらに続けて、
しかし、そうした不安定な背景から始まったこの国の「コミュニケーション」は、手にした人によってその解釈がまちまちなものとなり、結果、現在のコミュニケーションの不全を生み出す大きな土壌となっている。
こんな感じでどうでしょうか。
「察しと思いやりの文化」をもの差しに考えてよいのなら、この国におけるコミュニケーションの適訳とは、
『お互いを察し思いやるその中で、お互いの理解や共感を深めていくこと』
を言うのではないか、というのが、いまの私なりの結論です。
欧米でのコミュニケーションが、よく聞くように自分の考えをはっきり主張し「発信する」ことから始まるそれであるのなら、日本人のコミュニケーションは、相手の様子を「伺う」ところから始まるそれであり、その意味で全く逆の性質・ルールを持つものなのでしょう。
* * *
やっとこ本題です。
コミュニケーションという言葉に苦手意識を持ち、立ちすくんでしまう人が非常な数に上(のぼ)ることは、先のトピックで示した膨大な図書数からも明らかです。
(あれだけの本が出版されている、ということは、つまりそれだけ「買う人の数を見込んでいる」とも考えていいでしょう)
しかしもし「自分はコミュニケーションが下手なんだ」と思い込むことの根拠を、「上手くしゃべれない、場を盛り上げられない、気の利いた質問ができない」といった『スキル』に求めているのであれば、それはもう止(や)めてしまってもいいのではないでしょうか。
なぜなら、ここで定義したコミュニケーションという言葉の意味──互いの共感を深めていくこと──に沿って考えれば、それらは決して第一義ではなく、むしろそこからは遠いものだとさえ、言っていいはずのものだからです。
ではどうすれば、人は人を察したり思いやったり…といったことができるようになるのか。
それは、相手の「人となり」というものをまっすぐに見つめ、その話にじっくりと耳を傾けてみることからしか、実は始まらないのではないでしょうか。
(大多数の人間が絡む会議などの場では、これとは別にそのコミュニケーションのゴールを設定しそこからブレないことが大切になります)
日本人は元来「口下手である」とされてきましたが、しかしそんな日本人だからこそ、築いてこれたコミュニケーションの形がある。
そんな風に考えてみても、いいように思うのです。
※本サイトにおけるあらゆるテキストの転載・複写等を一切禁じます。