※10年前のアプリ当時のテキストです。今後修正を加えていく可能性大アリです。
「はじめに」でもお伝えしたことなんですが、私には、人との関係をうまく築いてこれなかった時期が長い間ありました。
といいいますか、正直いまでも全く得意ではありません。
どんな場所でも孤立しがちだった自分にとって、歳を重ねること、とは、イコール「自分は独りで生きていくしかないと諦めていくこと」としか、考えられないものでした。
自分には無理なんだと。
あるいはそれも、大人になるということ、自立していくということの、ひとつの「かたち」なのかもしれません。
独りであることの寂しさと、どう折り合いをつけていくのか。
人によってその悩みは深かったり浅かったりするのかもしれませんが、結局それが大人として成熟していくこと、自立していくことなのかもしれない、と。
けれども、このアプリの制作を通して、これまでの人生で気付いたこと、教わったこと、後悔したこと、失敗したこと、取り返しのつかないことのすべてを振り返り、文章にしていくなかでふと、抱いたのは、
自立する、とは、周りの人たちとの関係の中で自分が生きているのだと知っていく、ということなのではないだろうか。
という、ある意味逆説的な思いでした。
たとえば、偽りの自分を造り上げたり、FacebookやTwitterなどで、友達やフォロワーとただひたすらつながっていく。
こんな言い方は決して好まれるものではないでしょうが、友達やフォロワーや生きる姿勢や物、地位といったものが、人を引きつけるためだけのただの「見せ物」になっていく。
それは、「リスペクトされる自分」を造り想われることで自分を満たそうとする受動的なつながり方であり、おそらくどこまでいっても決して本当には満たされることのない、奈落の底のような、空虚な人とのつながり方だと言っていいでしょう。
しかし、そうではない。
自分の周りにいてくれる人たちの存在に気付いて、その人たちのために、自分に何ができるのかを考えていくつながり方。
まず人に想われるのではなく、まず自分から人を想っていく能動的な営みが、寂しさの埋め合わせ方、自分がそこにいていい理由を作り上げていく方法として、よりあるべきものなのではないかと思うのです。
「生活」でお話しした、察しと思いやりを軸にしたコミュニケーションのあり方は、そうした営みのベースとして、本来とても相性の良いものであったはずです。
しかしそのベースが、これもすでに書いたように、近代化以降の時間の流れのなかで揺らいでしまった。
「side-B(※以前の呼称。このサイトで再録するかビミョウです)」で失われた10年というキーワードを取り上げましたが、私たちはバブル経済というものの崩壊「から」何かを失ってしまったのではなく、その時すでに大きな落とし物をしてしまっていたのではないか。
そこをこそ見つめない限り、停滞とか閉塞といった言葉で語られるこの国の空気=人の心根に広がった病は、晴れないのではないか。
そんな風に考えるのです。
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ただ、ここでもうひとつ、ややこしい問題を乗り越えなくてはなりません。
いま使った、閉塞や停滞といった言葉。
こうした言葉は、たぶん、このアプリのメインターゲットにさせてもらっている皆さん、ひとり暮らしを始めた学生や社会人の皆さん(※アプリリリース当時)には、きっとこちらの意図している通りには響かないだろう、と思う部分がぼくにはあります。
私をはじめとした、皆さんよりも上の世代(ややこしいので以下では「ぼくら世代」と記しますが)の語る、この国の閉塞や停滞といった言葉は、近代化やその先の経済の崩壊といった変化の果てに生まれてきたもので、その変化を経験せず生きている皆さんにとっては「ふつうのこと」であるはずだからです。
(もっと言うと、ですからそもそも私のお話ししたような心根の問題など、皆さんの中には存在しないし、存在しない以上解決する必要もない、ということになってしまうはずです)
それは「世代間のギャップ」といった言葉で片付けてしまうには、あまりにも大きな隔たりであるように思います。
私たち世代は、自分達よりも下の世代を夢を持てない、やりたいことがないと、時にこきおろしたりすらします(そんな世の中を許してきたのは私たち世代であるはずなんですけど)が、私たち世代の語る、夢だの希望だのやりたいことだのが育まれたのは、変化以前の世界でであり、逆に言えば皆さん世代にとっては決して「知り得ないもの」のはずです。
その人が知り得ないものを胸に抱いてほしいなどというのは無茶振り以外の何ものでありませんし、そんなもの言いは、相手との距離をさらに広げさせこそすれ、相手の背中を押したりはしないはずです。
そうした意味で、皆さんに未来への期待を抱いてもらうための言葉が、私には用意できません。
皆さんが、私たち世代の語る希望や夢といった言葉を知らず、決して本当には共有することができないように、私もまた、停滞や閉塞が常となった時間の中で生きてきた経験、そしてそこで夢や希望というものを抱く方法を知らないからです。
経験していないことは、やはり人に送る言葉にはできません。
ただ、信じてみてほしい、と思うのです。
生活を見つめる。
生活している自分というものを見つめる。
そんな自分の周りにいてくれる人たちの存在に気付く。見つけ直す。
その関係に自分から触れながら、また生活していく。
それを繰り返す。
そうした積み重ねの中で考え、想い、行動していく先に、いまよりもうちょっと世界や明日をおもしろいと思ってもらえるような”すべて”が待っていると、ほんのすこしだけでいい、信じてみてほしい。
そう皆さんに投げかけてみたいのです。
想われる営みから想う営みへ。
ジブンマネジメントとは、心根の成熟を語った、無形の技術です。
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かつてデカルトという人が、「我思う、ゆえに我あり」と語り、そこから近代哲学、つまり自分の存在価値を問う道が拓(ひら)かれたといいます。
こうしてなにかを考えている自分は確かに「いる」のだから、自分は存在している。
なぜ自分の存在価値を問い、それが学問にまでなったかといえば、少々強引な解釈かもしれませんが、それはやはり寂しさが人の持っている根本的な感情であるからにほかならないでしょう。
けれども、自分ひとりだけでその存在を確かめる人生など、やっぱり寂しくはないかと、私などは思ってしまうのです。
人想う、ゆえに我あり。
少なくとも私たちには、こちらのほうが似合っているのではないか。
そう考えるのです。
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