【年末年始も上映 ネタバレ全開で紹介する】映画『君たちはどう生きるか』は、宮﨑駿の「別れの手紙」である

【公開から100日目だしネタバレ全開】映画『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿の「別れの手紙」である

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 こんにちは、またはこんばんは。たのさんです。みなさん、映画、観てますか。

 さて、日付をすこし遡りますが、2023年7月15日(金)、次いで2023年8月16日(水)、TOHOシネマ新宿にて、映画『君たちはどう生きるか』を観てきました。

 そこから、本日10月22日で公開から100日目を迎え、そろそろ終映かなーといった頃合いですが、紆余曲折を経ながらここまでやってきた本作品をご紹介して参りたいと思いますー!

※映画の内容について完全に触れる形でお話しをさせていただきますので、これから観る方で内容を知りたくないよ、という方はご覧になったあとで、よかったら読みにきてやってください(とは言え、今作についてはとくに大まかなアウトラインを押さえた上でご覧になったほうがいいんじゃないのかなーなんて思ったりもしています)。

■たのさんの個人的評価は5.0満点で「4.2」。

 一回目の点数は「3.8」、二回目の点数は「4.2」です。ただ、この作品を「日本のアニメーションに与える影響や、それらによって育まれてきたものたちに与える意味」、という観点から考えると、「5.0」を越えるものなのかもしれない、とも考えています。

 そんな訳で、本記事でも、通常の作品としての紹介と、「日本のアニメーション〜」としての紹介、2つの観点から紹介してみたいと思います。

『君たちはどう生きるか』©︎STUDIO GHIBULI

■『君たちはどう生きるか』を一言で言い表すなら

 通常の作品としての紹介からいきましょう。

 この映画を一言で表すなら、「少年版『千と千尋の神隠し』であり、宮﨑駿のイマジネーションが爆発・ダダ漏れとなった快作、あるいは怪作」かなと思います。

 この作品、『地球儀』という「シメ」があるとないとで、たぶん印象がまるで違うはずなんです。

 米津さんのこの曲があまりにも気持ちよく本作品をまとめているので、とても爽やかな印象が残ってしまうんですが、これがなければ、作品を観終わったあとの「???」すらも置き去りにされて、宮﨑駿という人のイマジネーションの濁流に飲み込まれただけの、言ってしまえば嫌な感触しか残らなかったんじゃないかなと思います。

 とめどもない「イマジネーションの濁流」としての「怪作」と表現するか、それを「地球儀」という曲でまるごと受け止め昇華してしまった、そこまでをもって「快作」と表現するか。

 本作にはまず、そんな二面性が存在する気がしています。

主人公の少年 眞人 ©︎STUDIO GHIBULI

■声優陣の演技は素晴らしいのひとこと

(「声優」という言葉を使うことに抵抗を感じる方もいらっしゃるかと思いますが、どうかご容赦ください)

「ジブリ作品」のご多分に漏れず、今作でも俳優・タレントの方々が声優として多数起用されています。私はどちらかというこの手法は嫌いなんですが、今作についてはその考え方が吹き飛ばされてしまうほど、皆さんの演技がすばらしかったです。

・眞人(まひと):山時聡真……主人公の少年。
・勝一(しょういち):木村拓哉……眞人の父。
・夏子(なつこ):木村佳乃……勝一の再婚相手で、亡くなった眞人の母・ヒサコの妹。眞人が夏子の屋敷(つまりヒサコの実家でもある)にやってくることで物語が動き出す。
・青サギ/サギ男:菅田将暉……屋敷にやってきた眞人を導く謎の鳥。正体にびっくり。
・ヒミ:あいみょん……異世界でのキーマン。
・キリコ:柴咲コウ……屋敷に仕える「ばあや」の一人であり、異世界で眞人を手助けする重要人物。
・あいこ:大竹しのぶ……屋敷に仕える「ばあや」の一人。
・いずみ:竹下景子……屋敷に仕える「ばあや」の一人。
・うたこ:風吹ジュン……屋敷に仕える「ばあや」の一人。
・えりこ:阿川佐和子……屋敷に仕える「ばあや」の一人。正直誰が誰だかわからない。
・ワラワラ:滝沢カレン……眞人が異世界で出会う「産まれる前の魂たち」。『トトロ』におけるマックロクロスケ、『もののけ姫』での「こだま」のようなイメージ。
・インコ大王:國村隼……(異世界のインコたち(後述)の王)
・老ペリカン:小林薫……(異世界のペリカンたち(後述)の一羽)
・大伯父:火野正平……(眞人の血縁)

 あえてびっくりした順に3人挙げてみ、と言われたら、勝一役の木村拓哉さん、キリコ役の柴咲コウさん、青サギ/サギ男の菅田将暉さんでしょうか。

 主人公・眞人の父親役を演じた木村さんの名前をエンドロールで見たときはびっくりしました。「●●さん(名前がバレたらある意味ファンの方から袋叩きにされてしまいそうな程のレジェンド声優さん)かな? いやでもそれにしては声が若い気が…」なんて思っていたのですが、それにしても違和感のない演技だったなと思います。

眞人の父・勝一 ©︎STUDIO GHIBULI

 この3ヶ月の間にご本人への評価や風向きがまた変わってしまったようにも思いますが、ただ「キムタクが演じてるなら観ない」というのは、ちょっともったいないかな、という気もします。

 柴咲コウさん。眞人が暮らす新しい家の「ばあや」たちの一人で、同時に、異世界に踏み入れた眞人を手助けする若い女性「キリコ」(名前はいっしょ)を演じているのですが、素晴らしくよい! のです。特に異世界キリコはジブリによく出てくる「快活で気持ちのいいキャラクター」を遺憾なく体現しているといっていいでしょう。

キリコ(異世界バージョン) ©︎STUDIO GHIBULI

 菅田将暉さんは、2回目観終わるまで青サギ/サギ男とは思ってなくて(『もののけ姫』のジコ坊に声が似ているので、正直小林薫さんだと思っていたんですが、それにしては菅田さんのお名前やけに上のほうにあったよなあ、なんて)、2回目を見終わって、初めて役名をフィックスさせることができて、また驚いてしまった次第。

青鷺(さすがに正体をここで紹介するのは忍びないので、設定画から。スタジオジブリの公式ツイッターより) ©︎STUDIO GHIBULI

 個人的には、全編を通して一箇所だけ、違和感の残る部分がないでもないのですが、でもそれだけです。

 たぶん観に行かれた方で、「誰々の演技に違和感を感じた」、という方は、そういらっしゃらないんじゃないのかな、という気がしています。

■「往きて帰りし物語の王道」?

 主人公の少年・眞人が生きるのは、太平洋戦争の中期。

 その最中の病院火災で母を亡くしてしまうところから、物語は始まります。

 その心の傷も癒えぬまま、父に連れられ疎開先として訪れるのは、父の再婚相手(であり、同時に母の実の妹でもある)夏子が暮らす、通称「青鷺(アオサギ)屋敷」。

・母を亡くした悲しみ。
・「お前はオレが守ってやる」と言いながら、眞人の抱える寂しさには気がつかない父。
・既に父の子(つまり眞人の弟か妹)を身籠りながら、母として懸命に振る舞う、しかし決して馴染めない夏子。
・そしてたぶんもっと馴染めないババアたち(言い方)の塊(言い方)。
・疎開先という環境。

夏子 ©︎STUDIO GHIBULI
ばあやたち。右端がキリコ ©︎STUDIO GHIBULI

「ひとりであること」に、意図的に身を固くしてゆく眞人の前に、3つの「物」が現れます。

・ひとつは、眞人の母親が眞人のために遺した「君たちはどう生きるか」という本。
・またひとつは、「青鷺屋敷」の裏手に佇む巨大な塔。
・さいごのひとつは、意志を持って自分にまとわりついてきているとしか思えない、一羽の大きな青鷺。

 対峙する少年と青鷺。自分を仕留めようとする眞人に対して、青鷺はついに人の言葉を使って(!)、こう囁くのです。

「母親に逢いたくはねえですかい…?」
「生きてますよ…ついてきてくれれば、逢わせてあげられるんですがねぇ…?」

※正確なセリフではないです。ご容赦。

 母は死んだのだと、一度は誘いを拒絶する眞人。しかし身重の夏子が塔へと姿を消してしまうと、罠と分かっていながらも青鷺の誘いに乗り塔の中へ、そして異世界へと足を踏み入れていってしまいます。

 異世界でのキリコや謎の少女ヒミとの出会い。なぜ夏子は異世界に足を踏み入れたのか?

 塔のなかで姿を表す、実は裏で全ての糸を引く「大叔父」という人物は、眞人に何を託そうとしているのか?

大叔父 ©︎STUDIO GHIBULI

 ここから先はエンディングまで、息継ぎをする間もないほどの展開と映像の連続です。

 本作を観られた方々の感想として「宮﨑監督の頭の中を見せられている気分」「宮﨑駿の夢の中にいるみたい」といったものが多く見受けられるのですが、その印象は、眞人が異世界へ足を踏み入れたあとの展開のものが大きく影響しているように思えます。

 それらの中には、かつての宮﨑作品のキャラクターや場面を彷彿とさせるものが少なくありません(たのさん的には、後半の眞人は正直パズーに見えて仕方がなかった)。

 個人的には、それも違和感が残るんですよね。宮﨑駿って、自分のセルフ・オマージュをするような人だったのか?(ただ、これも本稿後半の「日本のアニメーション〜」としての紹介での考察を読んでもらえると、しっくりくる気がするのです)。

*   *   *

 先ほど「息継ぎをする間もなく」という書き方をしましたが、表現としては「性急な」のほうが正しいのかもしれません。

「往きて帰りし物語」という、物語の語り方の王道と呼ばれるものがあります。主人公が「生まれた場所・いつもの場所」から旅立ち、何らかの問題を解決して帰ってくる、という物語の筋道の作り方を指したものです。

『桃太郎』のような日本の昔話からハリウッド映画まで、とくに「成長譚」と呼ばれるような物語には、すべからくこの構造が組み込まれている、と言えると思うんですが、それらにもやはり物語としての優劣はあって、その大きな要素として「主人公が生まれた場所・いつもの場所をしっかり描く」、というものがあるように思います。

・腐海と蟲たちの脅威の中で暮らすナウシカ(風の谷のナウシカ)
・パズーの炭坑夫としての生活(天空の城ラピュタ)
・父と田舎の新しい家にやってきたサツキとメイ(となりのトトロ)

 いわゆる「物語の導入部」と呼ばれるものですね。この部分がしっかり描かれないと、観ている人が主人公に感情移入できなくなってしまうのではないかと思います(ちなみに、この出発点を開始1分くらいで伝え切っているという点で、やはり『千と千尋の神隠し』はすごいのだと思います)。

 しかし次第に(具体的にはおそらく『ハウル』以降)、ジブリ作品から主人公の出発点を丹念に描く、という作業は、簡略化されていっているように思います。

 翻って今作です。「太平洋戦争中期」といった設定は、監督本人の少年期と符号させる以上の意味合いはなかったように思えますし、異世界に踏み込むまでの眞人を描くのに多めに時間が割かれた割には、(個人的に、かもしれませんが)その心情はあまり伝わってこなかった気がします。

 異世界にたどり着いた眞人がキリコと出会い、魚を獲り、運び、捌くのを手伝い、ワラワラたちの「生まれ変わりの道のり」やペリカンの死を見守り、見送る流れには、眞人が世界の営みを学ぶ、という意味合いがあるはずですが(だからこそ、眠りにつく眞人が「ごめんね、おばあちゃん」とつぶやくのでしょう)、それもどこか急ぎ足な印象が否めません(この辺り、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、主人公のシンジが我々の世界と地続きの第三村という場所で「人の営み」を見つめることが丹念に描かれたこととは、図らずも対照的な気がしてしまいます)。

ワラワラ ©︎STUDIO GHIBULI

 泣けるシーンがない、というわけでもありません。個人的には、眞人が夏子を見つけ出し、連れ返そうとするシーンなんかはいいシーンだなあ、と思いましたし。

 ただ、「往きて帰りし物語の王道」として、宮﨑駿という人が何を描きたかったのか、この作品で何を伝えたかったのかは、展開されるシーンを展開されるままに観ているだけでは、イマイチ伝わってこない気がします(幕引きも実にあっさりしています)。

 だからこそ観ている人には消化不良感が漂うのだと思いますが、これを絶妙のタイミングで『地球儀』がいい感じにもっていってしまうので、見え終えた感想としては(一応ハッピーエンドですし)「なんかようわからんけどおもしろかったわー」って言ってしまう人が多いんじゃないかなと考えています。

■まとめ1

 通常の作品としてのまとめです。

 評点の「4.2」は、「宮﨑作品」「スタジオジブリ作品」そして「もしかすると最後の作品」といったバックグラウンドに価値を感じるならばぜひ映画館に見に行ってほしい、でもおそらく困惑しながら映画館をあとにすることになるだろう、といった辺りを加味した点数、ということになるでしょうか。

 音楽も、久石節全開! というよりは、眞人の心情に寄り添うことにより焦点が合わせてられている印象があり、やはり従来の、「皆がよく知るジブリの音楽」とは、距離感があるように思います。

 おそらく最も期待されていたであろう「冒険活劇」という部分も存外薄味だったな、という感触が否めません。

 なお劇中、大量のカエルが眞人の身体にまとわりついたりといった、いわゆる「グロ」な演出もところどころ見られますので、そういうのが苦手な方は身構えておいたほうがいいかもしれません。

『君たちはどう生きるか』©︎STUDIO GHIBULI

■宮﨑駿が本作で描きたかったものは何か?

 ところで、この映画は、スタジオジブリによる単独出資で作られたと言います。これは簡単に言えば、「他にお金を出してくれるところが存在しない=作品の制作に口出しをする人もいない」ということです。

(逆に言えば、これまでの「ジブリ作品」のいくつか、あるいは大部分は、そうした「外部」の人からの口出しもあって制作され成立してきた、ということでもあるのでしょう)

 では今回なぜ、単独出資でこの作品が作られたかというと、プロデューサーの鈴木敏夫さん曰く、「宮さん(=宮﨑駿)の作りたいものを作ってほしいから」ということだったらしいのですが、さて、いざ初号試写で読み上げられた宮﨑監督本人のコメントは、

「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」

というものだったそうです。

 思う存分作りたいものを作った結果、作った本人が何だか訳がわからないものが出来上がった。

 物語やものづくりの「あるある」に宮﨑さんが陥ってしまったのだとしたら、それもまた人間臭くて面白いものですが、その一方で、

・眞人のモデルは宮﨑監督自身である。
・ヒロイン(?)のヒミは眞人の亡くなった母親の異世界での姿であり、またそのモデルは宮﨑監督自身の母親でもある(宮﨑監督の母親自身が早くに亡くなられて、監督はずいぶん寂しい思いをされたということです)。

 といった、(ご本人が公式にそう認めたわけではないと思うので)「通説」を総合して考えてみると、今作で監督が描きたかったものは、

「お母さんを助けるヒーローもの」
「お母さんに思い切り抱きしめること、抱きしめてもらうこと」

 だったんじゃないかなと、これは(このあとの「日本のアニメーション〜」としての紹介も含めて)極めて個人的な推論・結論として受け止めてほしいのですが、そう思います。

ヒミと眞人 ©︎STUDIO GHIBULI

 おそらく本作を観られた方が抱いた違和感のひとつには、(言語化できずとも)「母親がヒロイン(っぽいポジション)であること」があったんじゃないだろうか、と思うのですが、でもたぶんこれが、「思う存分作りたいものを作れる状況下」で、監督が描きたかったものだったんだろうと思います。

(たのさんがそうだったので分かるつもりなんですが、背景がどうあれ、母親に愛情を注いでもらえなかったという飢餓感、寂しさは、母親でなければ癒せないものなのです)

 まあ、だからこそ「怪作」と、たのさんは評するわけなんですけども。

*   *   *

 ただ、その結論に行き着いても、違和感のすべてが晴れるわけでもありません。先述した、セルフ・オマージュと思しきイメージがいくつも出てくることは、母親のこととは関係がないはずですから、であるならとしたらなぜなのか。

 プラス、たのさんが感じていた他の違和感としては、眞人が監督、ヒミ(=眞人の母)が監督自身の母親、合わせて、勝一がやはり監督自身の父親、そして青鷺が鈴木敏夫氏(スタジオジブリのプロデューサー)をモデルとしている(これらも通説でよかったはずですが)のなら、大叔父や、大叔父が異世界に連れ込んだとされるインコたち、ペリカンたちは、誰か、何かをモデルとしているのだろうか、というものがあり、これは依然として疑問に残ります。

■宮﨑駿が本作で伝えたかったものは何か?

 もうひとつ、大叔父が眞人に引き継いでほしいと語り託そうとする、「世界の均衡を保つための13の石」というものがでてくるのですが、これが「宮﨑駿が今まで作ってきた作品を表すものだ」という考察があって、最初たのさんはこれに結構な拒否反応を示したものでした。

 いやいや、宮﨑駿が、たとえ物語の中でも自身の作品を「世界の均衡を保つためのキー」だとか言わないでしょ、と。

 しかし、大叔父が眞人と同じく宮﨑駿をモデルとしたキャラクターである(13個の石が今までのジブリ作品の比喩なら、その持ち主である大叔父のモデルはやはり宮﨑駿だと考えるのが必然でしょう)、と仮定して考えてみると、この物語は「宮﨑駿が宮﨑駿を継承することを拒否する物語である」ということになり、そう考えると、ここまで書いてきたいくつかの疑問点が解(ほど)けてゆく気がするのです。

*   *   *

 宮﨑駿のエピソードのなか(たぶんロッキング・オン社から出ている『風の帰る場所』という本の中で語っていた内容だったかと思うのですが、違っていたらすみません)に、「親から、子供がトトロのビデオを繰り返し観ている、という話を聞かされて大変ショックを受けた」というものがあったかと思います。映画なんて一度見ればいいものだろ、と。

 僭越ながら、たのさんも毎クール70本以上のTVアニメ作品が絶え間なく流され続ける現状に危機感のようなものを抱いている部分がありまして、どんなに観る人に深い感銘を与えるエポックな作品が登場しても、受け取ったメッセージもそこそこに「次の作品」を求め続けて「アニメーションに埋没してしまう人」も多いのではないかと、考え込んでしまったりします。

(あえてプラスするなら、だからこそ、『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野監督は、自作品を観にきた観客に「アニメーションは卒業しなさいよ」と投げかけたのかもしれません)

 これらを合わせて考えてよいのなら、「宮﨑駿が宮﨑駿を継承することを拒否する物語」としての本作は、これまでのジブリ作品や、ジブリ作品が人々に与えたきた「ファンタジー」をある意味すべて否定するものであり、だとすると、インコ大王に盲従する無個性なインコたちは、ジブリ作品を観続け「アニメーションに埋没」してしまった私たち観客を、そして「自分たちが死んでいるのか、生きているのかもわからない」と告白しながら死んでいくペリカンは、自身がアニメーションの世界に引き入れてしまったスタジオジブリのスタッフや社員、もしくはジブリに憧れアニメーション業界に入ったすべての人を比喩したものであり、彼の悔恨の象徴であるのかもしれません。

 だからこそ、本作で「飛ぶ」のは、眞人やヒミなどではなく、現世に解放されたインコやペリカンたちなのでしょう。

インコ大王 ©︎STUDIO GHIBULI
老ペリカン ©︎STUDIO GHIBULI

 だから、「宮﨑駿が本作で伝えたかったものは何か?」と問いを立てるならば、その答えは「私は自分たちが築き上げてきたジブリという王国をここで閉じるよ」ということ、もしくはそうした姿勢なんだと思います。

■まとめ2・『君たちはどう生きるか』は、宮﨑監督の、「ジブリ作品」への別れの手紙である

 さて、「日本のアニメーションに与える影響や、それらによって育まれてきたものに与える意味」としてのまとめです。

『君たちはどう生きるか』は、表向きには少年が母との死別を乗り越えてゆくお話、そして同時に宮﨑駿が母親からの卒業を企図した私小説的な物語、そしてさらに、ジブリ作品がこれまで作り上げてきたファンタジー性を閉じる物語、という、三重の意味での「往きて帰りし物語」と「別れ」、そして「別れへの決意」を内包した映画であり、特に3つ目については、アニメーションを受け取る人たち、アニメーションを作り続ける人たちに影響を与えざるを得ない、その意味において5.0を超えるんだろうな、という作品なのだと思います。

※もうひとつ、蛇足ながら補足すると、最初にこの作品を「少年版『千と千尋』」と表現したのですが、おそらくこれはかなり意図的(勝一の「眞人たちが神隠しに遭っちまった!」というセリフもおそらくそうですが「少年版『千と千尋』」だとわかるように明確に誘導している)で、なぜかというと『千と千尋』ではラストに、千尋が異世界にいた証拠、ハクとの絆の証拠として髪留めが光るわけですが、『君たちはどう生きるか』では、青鷺があっちのことなんか忘れてしまえと言い放ち、眞人が青鷺屋敷をでていく場面では、なんの示唆も残されません。意図的に対比がなされ、意図的にジブリが描いてきたファンタジー性を否定しているのだと思います。

ヒミ ©︎STUDIO GHIBULI

 だからこそ、たのさんは宮﨑監督の次の作品に期待を寄せざるを得ないのです。

■「次の作品」?

 本稿、本当は1回目をみたあとの段階でかなりまとまってまして、その時点ですでに「更なる次回作もあるはずだ」とも考えていて、できればもっと早く、「監督が次回作に取り掛かっている」という報道の前に公開して、そら見たことかって自慢したかったんですけど(笑)。

 ここまで読んでくださった方からすると「本当にジブリを閉じたのならそれで終わりじゃないの?」と思われるかもしれませんが、「母親への憧憬を終わらせ、ファンタジーを閉じた」上で、描くべき物語があると、たぶん監督は考えているのだと思います(で、「これでやっと本当に老後を謳歌できる」と思っていた鈴木敏夫さんは「冗談じゃないよ」とジブリを日テレに託して引っ込んだ笑 ※もちろん推測で半分ジョークです)。

 どうなるのか見当もつきませんが(もしかしたらそれは実写になるのかもしれません)、たぶんテーマ、そして最後のメッセージは、「戦争」「反戦」「非戦」になるんじゃないかとたのさんは見ています。

■作品データ&評価

・タイトル:『君たちはどう生きるか』
・監督:宮﨑駿
・脚本:宮﨑駿
・原作:宮﨑駿
・製作:星野康二、中島清文
・音楽:久石譲
・主題歌:米津玄師「地球儀」
・上映時間:124分
・公開日:2023年7月15日(日本)
・映画.com:3.5/5.0(2023年9月19日現在・98件)
・Filmarks:3.8/5.0(2023年9月19日現在・104,380件)
・Yahoo映画:2.9/5.0(2023年9月19日現在・857票)
・Movie Walker:3.9/5.0(2023年9月19日現在・763件)
・Google:87% のユーザーがこの映画を高く評価(2023年9月19日現在)

映画『君たちはどう生きるか』シアターリスト

公式ツイッター(X)「スタジオジブリ STUDIO GHIBLI」@JP_GHIBLI