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ツイッターでフォローしている哲学研究者、永井玲衣さんのツイートをきっかけに、2022年9月30日、東京は表参道駅近くの「シアター・イメージフォーラム」にて、映画「重力の光:祈りの記録篇」を見てきた。
他の日が都合がつかなかったこともあるが、この日のトークイベントのゲストである高橋源一郎さんを生で観てみたい、という気持ちが強かった(どうでもいい)。それにしても、今年はなんだか1ヶ月に1本くらいのペースで映画を観ている気がする(さらに、とてもどうでもいい)。
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予備知識はなにもなし。ただ、観終わって、パンフレットや公式サイトを見たりしていると目に入ってくる、「ドキュメンタリー」という言葉には、どうにも違和感を覚えてしまう。
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この映画を構成するものには5つのパート、というか要素がある、と私は捉えていて、
・福岡県北九州市は東八幡キリスト教会における、演劇「キリストの受難と復活」の練習風景
・劇の演者達や、東八幡リスト教会牧師奥田知志氏らが、自らの過去・現在などを語る場面
(東八幡キリスト教会による困窮者支援の様子も含む)
・演者たちが劇の衣装のまま、しかし舞台ではなく外で過ごす様子
・演者の一人による歌唱(これがまた、いいのだ!)
・劇「キリストの受難と復活」
これらが、しかしはっきりと区分けされることなく、コラージュのように断片的に溶け合わされ、作品を象る。
この映画は、もちろん確かにドキュメンタリーだ。それは間違いないのだけど、しかしあくまでこの作品の側面のひとつであって、同時にミュージックビデオや映像作品としての要素も内包しており、そしてそれぞれがおそらく、各々のジャンルに対してのカウンターにも、実はなっているのではないだろうか。
最後に配された演劇が、たとえば教会のイベントなどにおける出し物の様子などを単純に録画したものでは実はなく、完全な一個の映像作品として成立させられていること(この部分には源一郎さんも驚いておられた)も、そうした考えに根拠を持たせる。
それぞれの要素に光を当てると、他の要素はいわば、その影に、バックグラウンドになって光を支えるのだ。
マンガで光を表現するとき、周りの黒をより濃くして浮かび上がらせるよう(by羽海野チカ)に、バックグラウンドに支えられた要素は、より強いものになって観る者に深く刻まれる。
「よくあるよい話」として風化させることを、決して許さない。
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さて、一つの要素に光を当てると残りの要素が影となる、そんな構成の作品だからこそ、浮かび上がった次の疑問は、より興味深いものになる。
この映画の主たる題目は、なんなのだろう。
監督、石原海氏が、この映画の「軸」として浮かび上がらせたかったものはなんなのだろう。
どれなのだろう。
たぶん、だが、それは(実は)上記のリストの真ん中にある、野外でロケをおこなったという、演者たちが天使やキリストの姿をして佇んだりしている、素の姿であるように思う。
■ – 閑話休題 –
このウェブサイトは、「はじめに」ですでに表明してある通り、私の思想や哲学的なものを反映させるものではない。そうではないのだけど、この作品の主題について、上記のような考えになぜ至ったかを説明するために、私の中で最近築き上げられつつある哲学のようなものを説明することは有用であると思うので、ここですこしスペースを割かせていただきたい。
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まずはじめにお話ししておきたいのは、私にとって哲学とは、「人が自らの幸福を追求するための、普遍的な知識」のことを指す、ということだ。
この「普遍的な」というのは、簡単なように見えてじつはなかなかのクセ者で、これを見失って自らの道を迷宮入りさせてしまった哲学者たちのリストで歴史の図書館はいっぱい(byパトレイバー劇場版)のような気がしてしまうのだが、それはさておき。
誰もが扱える「普遍的な知識」であるからには、人間誰しもが持つ普遍的な要素に根ざしたものでなければ、話は解決には至らない、と私は考える。
「普遍的な要素とは」、ここではこの国で義務教育を受けた人なら大体誰もが習ったはずの、性善説(孟子)や性悪説(荀子)で語られたような、「人間を形作る根本要素」のことを言う。
さて、では、「人間を形作る根本」とは、一体何だろうか。
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私はそれを(途中をだいぶすっ飛ばすけども)「寂しさ」に見出す。
つまり、人間の「素の状態」「ゼロの状態」は「寂しい」であって、だからこそ、人は一人では生きられない。自らのなかの「寂しい」を見つめ、他人の内にある寂しさを互いに察し思いやることでこそ、人の幸せは成るのではないか、とするものである。
(なので、私はこれを「性寂論」と名付けてみたい。にゃぜ性寂「説」ではないかというと、ゴニョゴニョ)
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私たちは、大体誰でも、寂しさのなかに或ること、また自分の内に寂しさが或ることを嫌い、恥じる。
憎しみすら抱いてしまう。
寂しさとは無縁のように思える人(だいたいはそんな人はいない筈なのだけど)を、羨ましく思ったりする。
だから、「それ」と目を合わせないように、それを振り払うように、それに背を向けるように、人々の耳目を集めるように振る舞ったり、好きでもない人の側についたり、SNSでいいねやRTやフォロワーの数を追いかけたりする。
人により好かれたいと思って「善」の方向に向かったり、
自分はどうせ人に好かれることはないのだからと、「悪」に向かったりする。
(つまり性寂論に沿って考えると、善も悪も二次的なものなので、ゆえに人の元々の性質を善や悪に求める性善説や性悪説は間違っている、ということには、なってしまう)
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けれども「寂しい」という状態が人間にとって「素の状態」であるとするならば、話はすこし変わってくる気がするのだ。
誰もが寂しいことが普通で、そして他人の内にある寂しさを互いに察し思いやることができるのなら、もうちょっと人間は幸せなほうへと進歩できるのではないかと、まったく自分は何を言ってるんだろうと思いながら、けっこう本気で考えていたりするのだ。
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やはり長くなった(ごめんなさい)。話を映画と、映画の主題についてへ戻す。
フィルムのなかで「菊ちゃん」「為ちゃん」は、「さびしい」という言葉を、実に自然に使う。
いまひとり、(教会にやってくるまで「手のつけられない暴れん坊」だったという)女性の、彼女を受け入れようとする奥田氏らにけっこう半端ない暴力をふるい続け、それにより自分から離れていかないかと試し続け(まだ詳しくはないのだが「試し行動」と呼ぶようだ)、ある時、その意味について「どうせ皆自分を見放し捨てるのだから早い方がいい」と吐露したというくだりは、やはり言外に「寂しさ」を内包したものだと言えるはずだ。
そうした吐露や独白は、しかしここでは自虐や自分を苛むためのそれらではない。
自らの過去や己が内にある「寂しさ」を在るものとして認め、他人のうちにもそれがあることを見出し、支え合う。
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寂しくていい。なぜなら、寂しくても助けてもらえるから。
その一方で、自分も誰かの寂しさを察し寄り添ってあげることが、いまならできるから。
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そんな人と人との本当にあるべき形を見出した人々の、穏やかな姿なのではないだろうか。
天使やキリストといった、劇の中の格好そのままで外でロケをし、そこで見せた、座ってタバコをくゆらせたり、何やようわからんステップでくるくる回りながら茂みに入ったりしていく、安全が約束されたわけではないけれど、安心した姿。
それは、東八幡キリスト教会という場と出会い、奥田氏らと出会い、そしてキリスト教という教えと出会い過ごすなかで、それぞれが得た赦しを象徴する姿であり、この作品の帰結点なのではないか。
そう思うのだ。
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奥田氏は、東八幡キリスト教会 牧師の傍ら、NPO法人抱撲(ほうぼく)という団体の理事長も務めているという。現在この団体が進める「希望のまち」プロジェクトというものがあり、先日東京で行われたそのイベントを見に行ってきた。
NPO法人がひとつの街をつくる。それだけでも壮大なプロジェクトだが、奥田氏はこの街を『「助けて」と言える街』にしたいのだという。
「助けて」と言える、というのは「寂しい」と言える街と同義なのではないか。
そんな風にも、また思うのだ。
(フィルムの中で、氏は「どうして困窮者を助ける活動にこんなにも心血を注ぐのでしょう」といった趣旨の質問に「さあ、なんででしょう、わからない」と応えていた気がする。その答えは、やはり氏自身の「寂しさ」の内に在る気がするのだ)
●上映スケジュール
・神奈川 横浜シネマリン 2022/12/17(土)〜 2022/12/31(土)
・広島 横川シネマ 2022/12/17(土)〜 2022/12/22(木)
・沖縄 桜坂劇場 2022/12/24(土)〜 2023/01/06(金)
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