世界の真ん中に、あなたはいない

世界の真ん中に、あなたはいない

※noteの、以前のアカウントからの転載になります。修正の可能性あり。

 ツイッターで、タレントの越前屋俵太さん(@echizenya_hyota)が、こんなツイートをしておられた。

 最後の一文以外は、とても腑に落ちた。 

 と、そう思った人(=最後の一文が気になった人)は自分以外にもいたようで、ご本人にリプライでその違和感を直接伝えている人が、しばしば見受けられた。

 その部分についてのお話は最後に回してみるとして。

なんで自分の調子が悪いのを、まわりのせいにしちゃいけないのか。
なんでそう思っている間は、どうすることもできないのか。
なんでそう思っていると、1%も自分が悪いと思ってることにならないのか。

だ。 

 すこしそこをお話ししてみたい。

 ちなみに、この“自分の調子”という言葉は、たぶん“環境”や“待遇”といった言葉に置き換えることもできる、と思う。

 だからこそ、この問題は、実はとても根深い。 

*   *   *  

 なぜこれを書いてみようと思ったかというと、最近ずっと私の頭のなかでもやもやしていた、「“『世界の中心には自分がいるべきだ』と、信じて疑ったこともないような人”がじつはけっこういるのではないか」という考えと、このツイートが指し示しているものとが妙にリンクしているような気がしたからにほかならない。

 もちろん、人生はその人自身のものであるべきだし、それが誰かに踏みにじられるようなことがあってはならない。 

 けれど、「世界」というものの中心には、たとえば天候とか時間とか運命とか、“人が抗うことのできないもの”がまずあって、そこにはきっと、誰も立ち入れないのだと思う。 

 いつかの自分も含めて、どうもそこがわかっていない人が多いような気がする。

*   *   * 

“自分の不調をまわりのせいだと考える人”というのは、イコール、自分に責任を課す、ということをしない、またはできない人だと思う。

 なぜ自分に責任を課さないか。これは、自分を疑っていないからだ。

「私はちゃんと努力をしているし、ちゃんとこの世界と折り合いをつけている。 “状況”は“いま”は悪いだけで、いつか自分は報われる。自分は最後には必ず勝つ。だから自分は間違っていない」

といったところなんじゃないだろうか。

(あるいは、ひとたび自分の責任というものに目を向けてしまえば、無数の責任が連なって自分へ押し寄せてくることがわかっているから、あえて自分を疑わない、という人もいるだろうけど、ここではそれを区別しない)

 私には、どうもそうした考え方の根本に「世界の中心には自分がいて、世界は絶対(最後には)自分を裏切らない」といった錯誤のようなものがあるような気がするのだ。

 それが「錯誤」であることの根拠はすでにお話しした通りだが、しかし仮に、自分に疑いを向けることのない人たちにこれを話しても、受け入れてもらえはしないだろう、とも思う。

“背景”があるからだ。

*   *   * 

 私は『すべてのものごとには理由があると考える原理主義』の教祖みたいな人なので、世界の中心には自分がいなくてはならない、と考える人の背景には、それまでの人生のどこかで、自分の人生を他人に強く抑圧されてしまったり、自身の存在そのものを否定されてしまったりした経験があるんだろう、と思っている。

 だから、そうした過去を経て、自分の人生は自分のものだ! その先にこそ私の幸せはある! だから決して邪魔されたくない! とする考え方や態度について、一見筋が通っていなくもないよな、と思うし、なるべくならそれを否定したくない。

 人が文字通り必死の思いで積み重ね守ってきたものを、わざわざ蹴散らすような真似なんてしたくはないのだ。 

 けれどもそうして積み上げた幸せは、やっぱりいつかどこかで、時間と天候とか運命だとかいった、“人間には抗うことのできない何か”によって、たやすく打ち壊されてしまう。終わりが来る。

 そのあとで訪れる、もはや取り返しのつかなくなった“その先”とは、どんなものだろうか。

*   *   *

 それでも、それまでが幸せならばいい、その先でどんな絶望が訪れようと覚悟している、という人は、たぶん必ずでてくる。

 それを個人の自由だという人もあろう、しかしだ。

 こうした考え方や態度は、同時に残念ながら“ひとつしかない”この世界においては、「じゃああなた以外の人間の居場所はどこにあるの? あなた以外の人には、世界の中心に居座る権利はないの?」という、「他者の問題」を孕むことになる。

“あなた”にこの世界の中心に居座る権利があるのなら、同じようにほかの誰にも、この世界の中心に居座る権利があるはずなのだから。

 けれども「世界の中心」はひとつだけだ。

 もし、それまでの人生のどこかで、自分の人生を強く他人に抑圧されたり、否定されてしまったがゆえに、自分が世界の中心にいることに拘るのだとしたら、この問題から目をそらすことなんてできないはずだ。

 それ自体が、自分の周りの人々を抑圧したり否定してしまうことにほかならないのだから。

 ようするにまとめると、周りの人々の都合も考えず身勝手な言動を繰り返す権利なんてあなたにはなくて、それができる=世界の中心に居座れるのは、時間と天候とか運命ぐらいのものなんだよ、ってことだ。

 蛇足かもしれないけれど、おそらく“自分の調子が悪いのをまわりのせいにする人”は、ここまで読んで初めて、“他者”というものの本当の意味を知るのだと思う。

 そして「そこから」こそ、「どうにかする」が始まるのだ。

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